角倉一族は嵯峨野の自然環境を、調和のある生活圏に変えてきた一族の人々でした。
大堰川の開削は難工事でしたが様々な工夫を凝らし、その成功によって丹波地方の農作物は旧に倍し運ばれました。
大堰川の開削工事は危険度も高く、事業に協力した人々の菩提を弔う寺として建立したのが大悲閣千光寺です。
かって保津川を下った物資搬送船は姿を消しましたが、現在では「遊船」が人を乗せ、急流を下っています。
希代の事業家角倉了以を父にもつ与一は、よく父の事業を継ぐと共に文化人としても卓越した業績を残しています。
慶長8年、すでに50歳になっていた了以が海外に船出を決意します。
高瀬川の開削によって、伏見の港を仲介して高瀬川の三条まで大阪の物資が搬送され、京に米・薪などが安価に出回るようになりました。