明治の文豪森鴎外は、テーマ小説の先駆けとなった「高瀬舟」を書いている。この「高瀬舟」の舞台は、角倉了以が、晩 年に開削した高瀬川である。主人公喜助は、舟上で護送してきた同心に晴れ晴れとした自分の心情を話すくだりがある。読む者に深い余韻を残すところであり、 いま高瀬川のほとりに植樹されている柳も、往時の面影を残す。
高瀬川は、慶長16年(1611)に工事着手、慶長19年に完成した運河で、高瀬川の完成と歩を同じくするように、 同年7月17日、了以は、61才の生涯を閉じている。この高瀬川を通行する高瀬舟の荷物のあげおろしをする船留所を船入(写真・京都二条の一之船入跡)と いう。この高瀬川は、京都二条にあった角倉了以の邸宅を基点に、一之船入りから伏見までの水運を開削したもので、全長は約10K余り、川幅は約8Mであっ た。流水調整の水門を設け9ケ所の船入りがつくられた。
高瀬川の川筋を京都では木屋町筋と名付ける。町名の由来は、木材商をはじめ多くの問屋が立ち並んだことにはじまる。今もその名残りの材木橋は新しい装いで架橋されている。
高瀬川の社会にあたえた影響には、二つの面がみられる、一つは旧来の運送業者が職を失うという事であった、他面では大阪から淀川をさかのぼり、伏見の港を仲介して高瀬川に入り、京の三条まで大阪船の搬送を助け、搬送物の米・薪などが安価に出回るようになったことである。
古図によると鴨川は本流以外にいくつもの細流が流れていた、この細流の一つを利用して高瀬川は開削されたのであって、土地の買い取りは細流の利用のむつかしい伏見寄りに片寄ったと思われている。
運河としての高瀬川は勿論通行料を徴収している。通航費を支払っても、人馬で荷物を運ぶより採算性がすぐれていた事は言うまでもない。
ちなみに当時の通行料は次のとおりである
船賃1回・2貫500文
(内訳)
幕府納入金 ・1貫文
舟の加工維持費 ・250文
角倉家収入・1貫250文
以上のことからみて、角倉家に年々納められる金額は1万両をこえたといわれ、その経済的利益は莫大であったことがわかる。
鴨川の二条の北側に了以の本邸宅跡が今も残っている。
木屋町通蛸薬師に所在する京都市「立誠」小学校がある。この学校の正面玄関左に、角倉了以の顕彰碑が建てられている。高瀬川開創350年を記念した同地域の高瀬川保存会によって建立されたもので、了以の功績などを中心とした資料を同保存会が整えている。