鉾先についた長刀は、疫病邪悪を祓うという意味を持ちます。長刀鉾は古来より「くじ取らず」と呼ばれ、毎年山鉾巡行の先頭を巡行します。また現在、お稚児さんが乗る唯一の鉾となっています。
永正年間、京都で大火があった時にちょうど霰が降り鎮火しました。霰とともに小さな天神像が降りてきたので、その天神様を火よけの神様として祀ったのが起こりです。
中国三国時代の呉の人・孟宗が、病気の母のために雪の竹林の中を母が好きな筍を探して、ついに手に入れた姿を表しています。因みにモウソウチク(孟宗竹)の種名はこの孟宗が語源となっています。孟宗竹林が描かれた見送りは、竹内栖鳳筆の白地墨画孟宗竹図です。
謡曲「芦刈」に登場するひとり寂しく芦を刈る老人の姿をあらわし、山の正面 と側面に芦の造花が飾られています。
御神体(老人の人形)のかしらには天文6年(室町時代)の銘、また衣装の小袖は天正(安土桃山時代)の銘がある古いものですが、巡行に使われる現在の衣装は近年の製作です。
中国古代の戦国時代、斉の孟嘗君が、家来の鶏の鳴きまねで函谷関を脱出できたという故事によります。前掛けは旧約聖書創世記の「イサクの嫁選び」をテーマにした十六世紀の毛綴です。
山には朱塗りの鳥居と社殿を乗せ、社殿の中には天神像を安置しています。天神さんらしく紅梅の花が彩りを添えています。見送りは梅原龍三郎の富士山の絵を原画とした毛綴です。
応仁の乱以前からの起源をもっていますが明治4年以降途絶えていたものを、1987年になって117年ぶりに巡行に復帰しました。祇園唐草模様の大傘の上には御幣と若松を飾っています。踊りは、赤熊(しゃぐま)鬼面 の棒振り、踊り手、囃し方で構成されています。
旧名は「花ぬす人山」といいます。平井保昌と和泉式部の恋物語を題材として、鎧姿の保昌が和泉式部のために紫宸殿の紅梅を手折ってくる場面を表現しています。前掛けと胴掛けは円山応挙下絵の逸品です。
鉾頭に金色の三日月をつけ、真木にあたる「天王座」には月読尊を祀っています。 屋根裏の草花図には円山応挙の落款があります。
聖徳太子が、上町大地に四天王寺を建立するにあたり、自ら材木を求め山に入ったことを表現しています。少年期の聖徳太子像が、右手に木を切る釜、左手に扇を持っています。この太子像は、江戸時代の作です。
神功皇后が、肥前・松浦の川で鮎を釣って戦勝を占ったという伝説を表現したものです。前掛けと胴掛けは日本三景を描いています。
世阿弥の謡曲「木賊」を題材として、過去にさらわれた我が子を思いながら木賊を刈る老人を表現しています。右手にかま、左手に木賊を持つご神体には元禄五年の墨書銘があります。
古代の中国・堯の時代、天下がよく治まり訴訟用の太鼓は使われることがなく鶏が巣を作ったという故事に由来します。見送りの毛綴は16世紀のベルギー製 で、イーリアスのトロイア戦争物語を題材とし、出陣するトロイアの王子が妻子と別れる場面を描いたものです。胴掛けは清水寺に奉納されている朱印船の絵馬 を原画としています。
琴の前で斧をもった人形は、中国・晋時代の琴の名人・伯牙が、友人の死を聞いて悲しみのあまり琴の弦を断ったという故事を表現しています。
踊りは、赤熊(しゃぐま)鬼面 の棒振り、踊り手、囃し方で構成されています。
四条傘鉾と同様に応仁の乱以前からの起源をもっていますが、元治元年に焼けて以来、明治に一度復活するものの再び中断し、昭和54年に巡行を再開しました。
貧しさのため母や子供を養えない郭巨が金の釜を掘り当て、母に孝行をしたという中国の史話によります。2体の人形は、鍬を持つ郭巨と紅白の牡丹を持つ童子です。
町内にあった菊水井戸にちなんでいます。元治元年(1864年)の大火で消失しましたが、昭和27年に再興されました。鉾頭には天に向いた金色の16菊をつけています。長寿の象徴である「菊慈童」の稚児人形が乗っています。
中国の唐の詩人・白楽天が、道林禅師に仏法の大意を問いかけているところです。唐冠をつけた白楽天と帽子(もうす)を被った道林禅師の2体の人形が乗っています。 前掛けの毛綴はトロイ城陥落を描いた十六世紀のものです。
山伏の姿をした人形は八坂ノ塔が傾いたとき法力によってなおしたという浄蔵戸貴所です。見送りや水引きは、中国の珍しい絵柄です。
「かまきり山」とも呼ばれています。かまきりが御所車の上に乗り、かまきりや車輪が動くというからくりがあります。「蟷螂の斧」とは、かまきりが前脚の斧をあげて大きな車に向かってきたという故事から、自分の力をかえりみず強敵に立ち向かうことのたとえです。
鉾の名は「天王座」に放下僧の像を祀るのに由来しています。かつては「生稚児」でしたが、昭和4年以降は三光丸と名付けられた稚児人形が乗っています。三人の人形遣いによって鉾の上で稚児舞いを披露します。
天照大神の岩戸隠れの神話を表しています。 天照大神、手力雄尊、伊弊諾尊の3体の人形が飾られています。
神功皇后の伝説を題材として船の形をしています。現在の船鉾は天保年間に完成したものです。船頭には「鷁(げき)」という想像上の瑞鳥を飾り、船尾には飛龍文の舵をつけています。
楊柳観音像と韋駄天像の2体を安置しています。鉾ではないので真木ではなく真松を立てています。見送りの紅地百子喜遊図は中国・明の品です。
五条大橋での弁慶と牛若丸との戦いのシーンを表現しています。人形は永禄6年(室町時代)の銘がある古いものです。
山の上には八幡宮が乗っています。総金箔の社殿は江戸時代後期の天明年間の製作です。
龍門の滝をのぼる鯉は龍になるという中国伝来の故事がテーマとなっています。前掛けや見送りの毛綴は「イリアッド物語」のシーンを描いた16世紀のベルギー製です。
役行者が鬼を使って葛城山と大峰山の間に橋をかけたという伝説を表現しています。3体の人形は役行者を中心に鬼の顔の一言主神と葛城女神です。見送りは中国の唐美人図綴錦と龍図絽刺です。
現在の鈴鹿峠にあたる鈴鹿山に出没する鬼を退治したという鈴鹿権現の伝説を表現しています。胴掛けは18世紀の中国・清のものです。
謡曲「志賀」のなかで、歌人・大伴黒主が桜の花を眺めている姿を表現しています。この人形は江戸時代の寛政元年の作です。飾られた桜の造花は、家に悪事を入れないお守になります。
宇治川の合戦での三井寺の僧兵・筒井浄妙と一来法師の姿を表現しています。筒井浄妙の鎧は室町時代に製作されたものです。
楊柳観音と脇侍の善財童子の像を祀っています。楊柳観音は手に柳を持ち衆生の苦難を救います。山鉾巡行のしんがりをつとめます。