葵祭の起こりは平安京以前の六世紀
『賀茂縁起』によると、567年、日本中が風水害に見舞われ、五穀が実らなかったので、卜部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ)に占わせたところ、賀茂大神の祟りであるという占いの結果がでたので、4月の吉日を選んで、馬に鈴を懸け、人は猪頭(いのがしら)をかむり、駆競(かけくらべ)して、五穀豊穣を祈り盛大に祭りをしたと記されています。このように当時は荒々しい男性的な祭りでした。
平安時代には源氏物語にも登場
平安時代になり、807年(大同2年)4月には勅祭(勅命により行われる祭祀)として賀茂祭が始められ、次いで、810年(大同5年)からは、賀茂神社の斎院(斎王)が祭に奉仕しました。(歴代の斎王は内親王または女王から選出されました)また、819年(弘仁10年)には、朝廷の律令制度として最も重要な恒例祭祀=中祀として行うこととなり、この中祀は伊勢神宮と賀茂社の他はありませんでした。その後、貞観年中(859〜876年)には、儀式次第が定められました。
当時、賀茂祭の社頭(神社内)における祭の儀式は一般の拝観を殆ど許されていなかったため、祭の当日は御所から賀茂社への行列を一目見ようと、貴族が牛車を押し並べ、さらに京の人々、地方から上京してきた人達も加わり、街は人で溢れたといわれています。
紫式部も『源氏物語』「葵」の巻で車争いの場面を描いています。
中断と復活を経て現在へ
盛大であった祭儀も室町時代中期頃から次第に衰退し、応仁の乱(1467〜1477年)以降は全く廃絶しました。
以後200余年の中断の後、江戸時代の1694年(元禄7年)に、徳川幕府の援助により再興され、その時に『賀茂祭』は『葵祭』と呼ばれるようになり、1870年(明治3年)まで継続しました。1871年(明治4年)から1883年(明治16年)までの中断の後、1884年(明治17年)春日大社の春日祭・石清水八幡宮の石清水祭と共に日本三勅祭のひとつとして執行されることとなりました。さらに第2次大戦中の1943年(昭和18年)から1952年(昭和27年)まで、中断や行列の中止がありました。
戦後、行列が巡行するようになったのは1953年(昭和28年)からで、祭の主役として一般市民から選ばれた未婚の女性を斎王代とするのは1956年(昭和31年)からとなります。