嵯峨天皇の離宮としてつくられ天皇退位後仙洞嵯峨院となる。貞観18年(876)大覚寺と命名される。両統迭立時代・南北朝対立期の大覚寺統の精神的支柱の役割を果たしたところである。
大覚寺統の後嵯峨帝・亀山帝も退位後はここに入寺・後宇多帝はここで院政をとり行ったので嵯峨御所ともいわれる。歴代の法親王なども入寺。格式の高い門跡寺院として今日に至っている。嵯峨流華道発祥の寺で今日の嵯峨御流華道総司所はその要である。
明徳3年(1392)の南北合一の話し合いは同寺の御冠の間で行われたといわれるが兵火で荒廃し、現在の建物は安土桃山時代に復元されたものである。