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古代豪族秦氏を訪ねて

仲野親王陵古墳(太秦帷子の辻=かたびらのつじ)

仲野親王陵古墳

桓武天皇の皇子である仲野親王を埋葬してある皇室の陵墓が、仲野親王高畠陵(写真)です。
この陵墓は南が平地で台地にありますが、その形は前方後円墳になっています。古墳時代後期に、この地域の首長墓として造られたものが、平安時代初期になって古墳の上に親王の墓を重ねて造つたと言われています。古墳は東南に向いています。その周囲に堀があったと思われる跡が、今も残つています。前方部が後円部よりはるかに大きいので、古墳が後期に造られたものと言われています。 御陵であるので、古墳の保存が一番よく残されているのですが、内部を調査されていません。

天塚古墳(太秦松本町十八番地)

天塚古墳

太秦の市街地の南東部の人工運河で知られている西高瀬川の南に、小さな丘があり、木が繁っています。ここが天塚古墳(写真)です。
この古墳は、秦氏の有力者の墓と考えられています。今から1400年余り前(継体・欽明大皇の頃)に造られたものと考えられています。形は、前方後円墳 で、横から見ると二段式に積みあげて造られていることがわかります。第一段の上部に円筒埴輪を並べて、第二段の土が落ちてくるのを防いだ跡があります。
天塚古墳の特色として、普通、前方後円墳は、後円部にたて穴をほって墓室にするのでが、この古墳は横穴にしていることです。これは、この時代の後の時代の墓の形式となってくる横穴墓室の形と前方後円墳とを併用している珍しいものです。
また、天塚古墳には、後円部に西南から入る王室と、前方と後円の境目になる西の所から入る陪室の2つの基室があります。主室は、主人公・陪室は、その家族か家来の遺体を入れたものらしいのです。
今の天塚古墳は、伯清稲荷がまつられて、王室の入口に小さな社が造られています。

甲塚古墳 (嵯峨甲塚町)

甲塚町に植木屋さんがあり、ここの植木畑の中にある古墳で、一番高い所ではまわり70メートル位で、丸く高く兜の形をしているのでこんな名前がつけられたものといわれています。
奥の1番広いところに小さな社が造られていますが、これは後の人か造つたもので、太秦でも1番古い古墳ではないかといわれています。

狐塚古墳と丸山古墳

狐塚古墳

甲塚古墳の北方に有名な広沢の池がありますが、広沢の池からさらに西へ少し進んだ左側、北嵯峨高校と通りをはさんで南側の竹薮のなかに、狐塚古墳(写真)があります。
ここは横穴式石室で、巨石を用いて造られています。

丸山古墳

道路をはさんで右側、北嵯峨高校のグランドの北側に、こんもり繁つた森が、見えます。これは丸山古墳(写真)です。
高さ10メートル・直径50メートルの円墳です。蛇塚古墳に次ぐ規模の大きさから、有力な人の墓であったと思われています。
このほか、七つ塚古墳といわれる古墳群があります。これは、七ツの円墳があるところから名づけられています。

常盤東ノ町古墳群

京福電鉄の常盤駅東北に盛り土の小丘があったのですが(馬塚古墳)、丸太町通の開通する少し前に住宅開発でつぶされました。ここは附近一帯に小円墳がたくさんあったらしく、内容の解明ができていません。
また、ここから200メートル先に、昭印51年11月に新たに古墳が出土しています。常盤東ノ町古墳群とよばれています。