嵯峨野に関わる伝説が数多く残っているのは、周知のことである。僧、西行(鎌倉時代・1118〜1190)についてもその例にもれない。
二尊院は、西行法師の庵のあった所であるとか、落柿舎の北側の井戸(写真)は西行の井戸であるという話は定着している。
能の舞台にも演じられる西行法師は、奥嵯峨に住居を持っていた。能のなかにも、子細あってここ(嵯峨野)を立ち出て゛住吉の明神へでかけるといったくだりがある。
また 嵯峨の南西4キロ程のところに大原野がある。ここは、桜の花で著名な花の寺・勝持寺がある。西行はここに草庵をつくり、桜を植えたと伝えられる。
彼が、桜花を詠む題材とした桜は、嵯峨の桜か、花の寺の桜か、何れのものかは検討の余地がある。
彼の「憂き世の"さが"になるものを」と詠んだ一首は、地名の嵯峨("さが")に結びつくからである。
西行法師の俗名は佐藤義清という。もとは滝口の武士と言われる。隠者となり各地を遍歴しながら、数多くの歌を創った。旅を住みかとして自然に触れた詩集が「山家集」である。西行法師は、鎌倉文化の内容とする公家と武家文化の融合を自己の歩みの中に具現したのである。