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嵯峨野の自然と文学史跡

向井去来(去来に関わる史跡・落柿舎、去来の墓)

落柿舎

嵯峨野に足を運ぶ人は必ずといってよい程「落柿舎」(写真)を訪れる。 芭蕉の門下十哲のひとり、俳人・向井去来(江戸時代・1651〜1704)のすみ家の史跡であり、今も残る田畑の中にその舎が残っているのも古都らしい風情である。
 俳諧の道を求める人はもちろんのこと、嵐山を望む好適な位置にある落柿舎は、嵯峨野散策の欠かせぬコースの一つである。

落柿舎2

落柿舎の名のように、去来はこの古家の周囲に柿の木をたくさん植えていた。〃柿ぬしや木ずえはちかきあらし山〃の句がいまも当時をしのばせる。
去来は武家の出身であり、学問を好んだ。生真面目な性格から創り出すその句は、芭蕉を師として心から傾倒したようである。芭蕉がこの地になんどか訪れたことは去来に対する信頼の証しである。また、芭蕉の「嵯峨日記」は、ここ落柿舎を拠点に書かれた。

去来の墓

落柿舎の北裏には弘源寺の墓苑がある。去来のすみ家"落柿舎"を訪ねる人は多いが、この墓苑を見ずに帰る人は、意外と多い。この墓苑内に去来の墓(写真)が侘しく残されている。
 また、墓苑の東側に古井戸がある。小倉山麓に住まいを持っていた西行法師がこの井戸の水を用いたので、西行井戸として、残されている。また、墓苑一帯 に、現代の俳諧同人の歌碑・句碑がたくさん建立されている。それらは、去来・西行を讃え偲ぶ同人たちの心の趣をあらわし、嵯峨野の風情を一層、深めて、訪 ねる人に対して、発句の世界に入り込ませる観がある。
向井去来の生家は長崎で儒医・天文学者の次男として生まれた。 25歳の時、父と共に上京し、儒医・天台を学ぶことになったが、京の五条坂の遊女「可南」と世帯を共にするようになってからは、専ら俳諧に深入りし、嵯峨 野の魅力にひかれて、別宅として落柿舎を買い入れたといわれる。
 彼は俳人のほか農夫や町人も出入りができる俳諧道場をここに作った。「落柿舎先生行状」に記された彼の姿は実に人間的で、田に働く農夫にねぎらいの言葉をかけ近隣の雑苦に耳を傾けたようである。