朱印船貿易は秀吉の時に始まり、徳川家光時代で終わる。角倉了以は秀吉には接近せず、徳川家康の時代になり(慶長5〜6年頃)朱印船貿易の許可を受けている。
寛永7年(1630)了以の子・与一が建立し、林羅山が碑文に記した「河道主事嵯峨吉田了以碑銘」のなかに、了以は「信長や秀吉に仕えることを潔しとしなかった」と記されている。なぜ了以が信長や秀吉には近づかなかったのかは、定かではない。
慶長8年、すでに50歳になっていた了以が海外に船出を決意する。慶長16年(1611)以後、了以は、安南貿易から手を引くが、角倉家が朱印船貿易を再開するのは、元和5年(1619)了以の他界した後になる。以後寛永の鎖国時代まで角倉家は延べ18回の朱印船を設営した、その規模については長さ20間(約36.4メートル)横幅9間(約11メートル)の舟で397人の乗員となっている。
角倉の朱印船は、家光の禁令(寛永17年)前の寛永11年に最後の船(与一の時代)を出している。このときの祈念に京都東山の清水寺(写真は清水寺と清水の舞台)に角倉船を描いた絵馬を奉納した。
この絵馬は今も同寺の収蔵庫に保存され、重要文化財の指定を受けている。清水寺では、同寺発行の図版集「絵馬」のなかで詳細を著している。この絵馬は、縦2m67cm.横3m60cmと大きなもので、絵馬を見ると船体は白く塗られ4枚の帆・2枚のむしろ状の帆が揚げられていることや甲板の後尾のほうに破風の屋根を作った部屋があり、船上での日本人・南蛮人の容姿が描かれ往時を偲ぶことができる。