京都府船井郡の丹波山地に源を持ち現八木町や亀岡市保津を経て嵐山に至る流れが保津川である、大堰川は、この保津川の下流域のことで嵐山の麓から渡月橋付近をいう。
角倉了以は、天竜川・富士川など諸河川の開削事業を慶長9年に発意する。まず大堰川開削工事を了以53才の時・慶長11年3月から着手し、同年8月までの6ヵ月を費やし完成する。工事着工の前々年、岡山の和気川に遊んだときに、その「洪舟」を観察、喫水が浅くとも渓流を下ることができる事を知り大堰川を調査する。確信を得た了以は幕府にこの大堰川開削の許可を求めた。
しかし、開削工事は、難工事であった。開削に当っては水路を遮る岩石を爆薬で砕いたり、ろくろ網で引き寄せ、また水中にあるものは鉄槌で岩を叩き砕くとか、落差があるところは上流の川床を掘って調整、水路の広くなり浅いところは置石で整えるなど開削に工夫を凝らした。
史料「前橋旧蔵聞書・六」その他諸家の文書などの史料によると、保津峡の開削の成功によって搬送船が嵯峨に着き、丹波地方の農作物は旧に倍し運ばれはじめ、嵯峨は市中商人の往来が多くなり発展がみられたと記されている。材木は筏で運送され、険しい山道を人馬で物資を搬送したいた頃より、その利便は格段の差を生じた事が伺える。
また、これまで運送を担当していた丹波の馬借らが、角倉の水運に経済的基盤を奪われたことは推測できる。角倉家は、莫大な資金を投じて開削したとはいえ、開削後の水運による収益を独占することになる。また、通船の技術導入に当たっては、備前和気郡伊部村の法蔵寺の壇徒で行舟術にすぐれた舟夫18人を嵯峨に了以が招いて、新しい水運への対応をしたのである。
舟夫の止宿先は嵯峨の弘源寺で、後にこれらの船夫を嵯峨に定住させ、大雄寺の荒れ地を開拓し、ここに舟夫の居住地を作った。現在の京都市右京区嵯峨角倉町あたりである。