御土居とは かつて京都は周囲を土塁で囲まれた城郭都市でした。その土塁とは豊臣秀吉が、天正19年(1591)に京都に築いた御土居と呼ばれるものです。その目的は、戦乱の続いた京都を外敵から守る防御機能であり、また鴨川の西岸や紙屋川の東岸に沿って造られていることから洪水対策も兼ねていました。また、洛中と洛外を明確に区分することによって、京都の都市化をさらに推進する目的もありました。天正13年(1585)の聚楽第の築城と併せて総合的にとらえると京都の城下町化を図ったものと考えられます。御土居の総延長は22.5キロメートル、北は鷹ヶ峯から南は東寺、東は鴨川の西岸から西は西大路までの範囲を囲んでいました。その工法はまず掘を掘り、そこから出た土砂を土塁として積み上げました。御土居によって囲まれた洛中と洛外の出入口は『地名』として現代まで伝っています(『鞍馬口』=鞍馬街道へ、『大原口』=鯖街道へ、『荒神口』=山中越へ、『粟田口』=東海道・中山道へ、『伏見口』=伏見街道へ、『竹田口』=竹田街道へ、『東寺口』=鳥羽街道へ、『丹波口』=山陰街道へ、『長坂口』=周山街道へ)。江戸時代に入ると、京の出入口を表す言葉として『京の七口』と呼称されるようになりましたが、実際には、安土桃山〜江戸初期の公家・近衛信尹の日記『三藐院記』によると、築造当時の御土居の出入口は10口であったようです。その後、平和な時代が続いた江戸時代初期から御土居はしだいに取り壊され、現在では断片的に確認できる程度しか残っていませんが、9ヶ所が史跡として指定され保存されています。
御土居跡について 御土居跡として残っている代表的なものは北野天満宮の境内に残る史跡御土居です。その北野天満宮から一番近い場所では、北野天満宮のすぐ北側の平野鳥居前町にも御土居跡が保存されています。 |
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住所 | 京都市上京区馬喰町 北野天満宮境内 その他、京都市上京区平野鳥居前町など |
交通 | 市バス 北野天満宮 徒歩すぐ |
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