千年の都といわれる京都は、都のあった平安時代が最も注目されています。
けれども、平安時代以前に、古代の京都を開拓した先住民の人達がいました。これが、太秦の秦氏です。
嵯峨野,太秦の知ってるつもり・第一回では、この秦氏に注目し、秦氏が朝鮮半島の新羅(しらぎ)からの渡来民であること、農耕、土木、養蚕、機織りの技術を伝え、古代京都に新しい文化をもたらし、千年の都をつくる基礎づくりをした集団であることを秦氏ゆかりの古墳や遺跡の写真を交えて、訪ねます。
平安京以前、古代の豪族・秦氏が、未開拓地であった嵯峨野の地域で灌漑を造り農業をひろめました。
大堰川に「葛野大堰」と呼ばれている堰をつくり、嵯峨野の地域で灌漑を営んだことは、秦氏が高い技術水準を持っていたことを物語っています。
秦氏とは、このような高度な技術を持っていた集団の一族で、5世紀後半に渡来してきたといわれています。
けれども秦氏は、他の古代豪族が天皇を中心に権力争いをしたようなことはしていません。(蘇我・物部・入伴などのように)
秦氏は、京都・太秦という土地を中心に、農耕・機織などの労働を中心とした実力豪族として、その姿が残されています。
写真は江戸時代に大堰が修復されたときに建てられた石碑です。
名勝嵐山の渡月橋から大堰川に沿って更に西へ、トロッコ嵐山駅まで約100mの所です。