織田信長は、天正10年(1582)京都の本能寺に宿泊中に、家臣の明智光秀に攻められ自害しました。知らせを聞いた豊臣秀吉は山崎の合戦で明智光秀を破り、さらに翌年には柴田勝家を破り、信長の後継者としての地位を確立しました。
全国統一を目指す秀吉は、天正13年(1585)には関白、翌年には太政大臣となり、天正15年(1587)には、関白の公邸として京都に城郭風の聚楽第 を完成させました。(それから4年後、秀吉は関白職を養子の秀次にゆずってここに住まわせますが、秀吉が秀次を自害させた後に聚楽第は取り壊しました。)
本能寺
地下鉄御池から徒歩5分
明智光秀による本能寺の変の舞台。豊臣秀吉により、現在地に移った。
安土桃山時代はそれまでの時代と違い、秀吉のように農民や下級の武士から大名に上り詰める者が出たり、活発な商業によって豪商が出現するなど、生活を楽し もうとする華やかな文化が栄えました。建築や庭園にも華やかな美しさがあります。また秀吉は慶長3年(1598)、醍醐寺で豪華な花見の宴をくりひろげま した。
醍醐寺
市バス醍醐三宝院前から徒歩すぐ
仁王門を入ると豊臣秀吉が紀州より移した金堂や御影堂なとが並ぶ。また、花見の名所として知られ、慶長3年(1598)秀吉が豪華な花見の宴をくりひろげた。
三宝院
市バス醍醐三宝院前から徒歩すぐ
豊臣秀吉により再建されたため桃山建築の美しさがある。 庭園もその時代のもので、桃山時代の名園。
大徳寺
市バス大徳寺前からすぐ
大徳寺の金毛閣(写 真)は、千利休によって造られた。ここに利休像を安置したことから、秀吉の怒りをかい、このため利休は切腹を命じられた。
秀吉の死後、秀吉の子・秀頼がまだ幼かったため実権は次第に徳川家康が握るようになります。家康は慶長5年(1600)、関ケ原の戦いで石田三成を中心と する西軍に大勝をおさめ、慶長8年(1603)江戸に幕府を開きます。また家康は、秀頼と淀君によって再建された方広寺の鐘に書かれていた「国家安康・君 臣豊楽」にクレームをつけ、慶長19年(1614年)11月の大坂冬の陣と慶長20年(1615年)5月の大坂夏の陣 )で豊臣家を滅ぼしました。
豊国神社
市バス博物館三十三間堂前から徒歩5分
明冶13年に再建された豊臣秀吉をまつる社。伏見城の城門を移した唐門は、桃山様式。
方広寺
市バス博物館三十三間堂前から徒歩5分
秀頼と淀君によって再建されたが、そのときに鋳造された鐘に「国家安康・君臣豊楽」と刻んだことが、徳川家康の怒りを買い、その後、豊臣家は滅亡の道を辿った。
三千院
市バス・京都バス大原から徒歩10分
豊臣秀吉の建立と伝えられる客殿や房殿などがある。
高台寺
市バス東山安井5分
豊臣秀吉の菩提を弔うため、秀吉の正妻・ねねが、家康の援助により1660年に創建した。