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幻の京都探訪

平氏六波羅第跡・鎌倉幕府六波羅探題府跡

六波羅第跡

▲六波羅蜜寺境内にある「此附近 平氏六波羅第 六波羅探題府」の石碑

六波羅蜜寺 六波羅第跡1 六波羅第跡2 六波羅第跡3 六波羅第跡4 六波羅第跡5 建仁寺の勅使門 東福寺の六波羅門

六波羅第・六波羅探題府とは

六波羅は、当時の五条大路(現在の松原通に相当)から七条大路までの鴨川東岸の一帯の地域を表す名称です。平安時代前期この地に、珍皇寺、六波羅蜜寺などの寺院が建立されましたが、平安時代の後期には平氏が邸宅を構えました。平清盛の代には邸宅は四町四方という広大なものとなり、さらに清盛邸を中心に平氏一族の邸宅や家臣の住居が並び、平氏は絶頂を極めました。これらの邸宅を平氏六波羅第といいます。しかし1181年に清盛が亡くなると平氏の勢力は急激に衰え、1183年平氏の都落ちの際に六波羅第は平氏自らの手で火が放たれました。
鎌倉時代の1221年・承久の乱後、ここ平氏六波羅第の跡に、鎌倉幕府は、朝廷の監視や京都周辺の警備また西国のトラブルの裁判などを執行する機関(役職)を設置し、北条氏の一族の中から有望な人材が任命されました。この機関(役職)は単に六波羅と呼ばれていましたが、南北朝以降、六波羅探題と呼ばれるようになりました。この六波羅探題が設置された役所が六波羅探題府です。時は経て1333年、元弘の乱が起こると後醍醐天皇の命に応じた足利尊氏らによって六波羅探題府は攻め滅ぼされました。

六波羅第跡・六波羅探題府跡について

六波羅蜜寺の境内を入ってすぐの右脇に「此附近 平氏六波羅第 六波羅探題府」という石碑が立っています。さらに境内には鎌倉時代に造られた平清盛坐像(重要文化財)が安置されています。また清盛の塚もあります。
また、建仁寺の勅使門は六波羅探題府の北門を移築したものです。東福寺の六波羅門は六波羅探題府の南方の門を移築したものです。

住所 京都市東山区五条通大和大路上ル東 六波羅蜜寺内
交通 市バス 清水道下車、徒歩7分
京阪電車 清水五条駅下車、徒歩7分

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