▲旧二条城跡の石碑
旧二条城とは
徳川家康が江戸時代初期に造った現在見られる二条城の他にも二条城は歴史上存在しました。それは織田信長が築いた旧二条城です。室町幕府の第13代将軍・足利義輝が1565年に暗殺されたため、もともと幼少期に出家していた弟の足利義昭は還俗し、室町幕府の再興を目指して織田信長を頼りました。1568年、織田信長は足利義昭の後見を努め義昭とともに上洛しました。そして信長は自らの地位を固める策のひとつとして1569年に室町幕府15代将軍・足利義昭の将軍座所(居城)として二条城を造営しました。それは室町幕府の三管領(さんかんれい)の筆頭・斯波(しば)氏の邸宅の跡地(武衛陣と呼ばれていましたが応仁の乱で焼失、後に将軍・足利義輝がこの地に邸宅を構えましたが、その邸宅も将軍暗殺の際に焼失。)を拡張し造営したものです。その規模は、現在の石碑を中心に約390メートル四方(東は烏丸通から京都御苑に少し入ったあたり、西は新町通の東側、北は出水通、南は丸太町通と推定されています。)の敷地でした。工事は70日間の突貫工事であったにもかかわらず、二重の掘や三重の天主を備えた堅固なものでした。その工事の様子は、来日中のポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが著した『日本史』に記録が残っています。ただし、あまりに突貫工事であったため石垣に使う石材は洛中内外からかき集められ、灯籠や石仏までもが使われました。
旧二条城跡について
現在の平安女学院の敷地の中に『旧二条城跡』の石碑と説明看板が建てられています。同じく現在の平安女学院の敷地の中に『斯波氏武衛陣・足利義輝邸遺址』の石碑と説明看板が建てられています。
また1974年〜1980年、地下鉄烏丸線の建設工事に伴う発掘調査で、旧二条城の石垣に使われていたと推定される石材が発掘されていて、旧二条城の敷地の範囲内であった現在の京都御苑の敷地の一角に石垣が復元されています。
住所 | 『旧二条城跡』の石碑:京都市上京区室町通下立売角 平安女学院の敷地 『斯波氏武衛陣・足利義輝邸遺址』の石碑: 京都市上京区室町通下立売下ル 平安女学院の敷地 『旧二条城』の復元石垣:京都御苑・下立売御門を入ってすぐ北側 |
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交通 | 地下鉄丸太町駅2番出口 徒歩約3分 市バス 烏丸下立売 すぐ |