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幻の京都探訪

聚楽第跡

聚楽第跡

▲聚楽第跡の石碑

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聚楽第(じゅらくだい)とは

安土桃山時代の1586年(天正14)、豊臣秀吉は、京都に絢爛豪華な城郭・聚楽第(じゅらくだい、又は、じゅらくてい)の築城を開始し、翌1587年(天正15)に完成させ、大坂城から移り住みました。その場所は平安時代の平安宮(大内裏)跡の北東部分にあたります。東西約600メートル、南北約700メートルと考えられ、後に徳川家康が造った二条城よりもさらに大きな規模でした。この聚楽第の城郭は内郭と外郭からなり、内郭には本丸、北之丸、西之丸、南二之丸がありました。中でも本丸は、東西約300m、南北約400m(東西は現在の大宮通〜裏門通あたり、南北は現在の一条通〜下長者町通あたり)にもおよび、四方には濠が廻らされていました。濠は幅20メートルから43メートル、深さ6メートルから8メートルありました。
聚楽第へは天正16年(1588)に後陽成天皇の行幸もあり、当時の秀吉の権力を象徴するものとなっていました。天正19年(1591年)になると、秀吉は甥の秀次に関白の地位と聚楽第を譲りました。しかし、秀吉に実子の秀頼が誕生すると、秀吉は文禄4年(1595)には秀次を追放し、その絢爛豪華な聚楽第も徹底的に破壊しました。

聚楽第跡について

中立売通に面した正親(せいしん)小学校の前に「此付近 聚楽第址」という石碑ならびに「この付近 聚楽第本丸西濠跡」という説明板が建てられています。また、そこから中立売通を東へ歩いた中立売通大宮の北西角(ハローワーク西陣の向かい側)には、「此付近 大内裏 及 聚楽第東濠跡」という石碑が建てられてします。
これまでの発掘調査で、本丸の西濠跡、本丸の東濠跡、本丸の南濠跡、南二之丸の南濠跡、南二之丸の西濠跡、北之丸の北濠跡が明らかになっています。1992年には本丸の東濠跡から多量の金箔瓦が出土しました。さらに2012年、本丸の南濠跡の北面あたりで東西約32mにわたって石垣が発掘されました。これは京都府警察本部西陣待機宿舎建設工事(智恵光院通上長者町下ル)に伴う発掘調査によるものです。(現在は見学できません)
また、西本願寺にある国宝・飛雲閣(公開は特別公開時のみ)は、聚楽第から移築されたもので、聚楽第を今に伝える遺構となっています。

住所 「此付近 聚楽第址」という石碑ならびに「この付近 聚楽第本丸西濠跡」という説明板
                 :中立売
裏門 正親(せいしん)小学校
「此付近 大内裏 及 聚楽第東濠跡」の石碑
                 :中立売通大宮の北西角 (ハローワーク西陣の向かい)
交通 市バス智恵光院中立売より徒歩

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